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お祝いの会と建築見学 [雑感]

5月14日。大学の同級生、神戸芸工大川北教授、建築学会賞受賞のお祝いの会のため神戸に行った。
以下、この2日間の行動記録である。

14日昼。昨年設計事務所を退職し、鹿児島高専の新人教員になった岡松君と大阪空港で待ち合わせる。事前に誘ったよっしんこと、吉村君も奥さんののんちゃん同伴できてくれた。のんちゃんも学生時代からの知り合いで、相変わらず楽しい子だ。再会を喜んだ。

芦屋のヨドコウ迎賓館(山邑邸・ライト設計)に行く。2回目の訪問だが、何度見てもすごい建築だ。
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船屋形(重文)を見に、三宮の相楽園に行くも既に閉館時間を過ぎていた。残念!
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公園入り口の立派な門。

19時から北野坂のレストランにてお祝いの会。同級生12名参加。
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左から、川北君。会の途中で花束を持って現れた謎の女性に神戸のタイル業界を仕切っているとうわさの古津君。

二次会。同じ北の坂にある小曽根真のジャズクラブ「ソネ」にて。
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神戸はやっぱりあか抜けしている。

ホテルに帰る前、岡松君と米田君と仕上に明石焼きととろろご飯を食べた。
仕上の一品は地方色が出る。
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翌朝、六甲山山頂の三分一博設計の展望台を見に行く。
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「六甲枝垂れ」という。

六甲山からの大阪湾のながめ。黄砂のため視界がよくない。
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兵庫県小野市。浄土寺(国宝)
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国宝浄土堂には快慶作の阿弥陀如来像が安置され、像の背面にある蔀戸から光が差し込むと阿弥陀様の背面が照らされる。7月から9月の午後3時半頃からその空間を体感できるそうだ。また来なくてはならなくなった。

兵庫県加西市。一乗寺。
国宝の三重塔がある。下から、上からと、塔を見ることが出来、そのシークエンスが楽しめる。屋根の低減率が大きく、とてもプロポーションが良い。
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西脇市岡之山美術館。磯崎新設計で、西脇市出身の横尾忠則の作品がある。
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瞑想室
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展示室
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トイレの窓から外部を見ると、そこにも絵が。
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近くにある東経135°北緯35°の標。
ここは日本の「へそ」と言われている。へーそう。
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同じ「へそ公園」にある西脇経緯度地球科学館。毛綱毅曠設計。
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西脇市古窯陶芸館。渡辺豊和設計。resize0154.jpg
閉館しているようで、管理も行き届いていない。
古建築とポストモダン建築をめぐる一日であった。

通過点であるという意識 [雑感]

ある文章で、デンマークの人は、今いる自分は過去と未来をつなぐその通過点で生きているという意識を持っているとあった。

極めて当たり前のことだが、いろいろな物事を考えるに、この通過点であると言う意識を持つことは大切だと気づかされた。原発問題なども今現在の経済や利便性などを優先し、未来のことを考えないが為にこのような事態になったといえないだろうか。国や地方自治体の赤字にしろ現在の豊かさを維持するために膨大傾向に歯止めがかからす借金返済を子孫に回している現状をみれば、通過点である意識などまるで無いのがこの国だ。

サスティナブル(持続可能)と言う言葉を良く耳にするようになった。今のままでは将来まずいことが起こりそうなので、どうやって破綻しない社会を作ろうかということだ。ある本にその点、江戸時代の日本の社会は学ぶところが多いと書いてあった。260年にわたる江戸の社会では、エネルギー、食料、人口などの問題のある中、それらを創意工夫で克服しつつ、環境を守り、毎日の生活を楽しみ、経済的に活気ある社会を築いて行ったそうだ。

江戸時代のことを勉強すことで、なにかヒントが得られそうだ。まずは、古典落語でも聴いてみるか。

GW後半 [雑感]

ゴールデンウィークも残すところ2日となった。私事ながら我が家は子供たちも大きくなったこともあり、特別どうという週間でもなく、2日間だけ久しぶりに家族で実家に帰ったくらいで、それぞれの時間をすごしている。そういう僕もそれ以外は仕事をしたり本を読んだり。でも、このGWは子供が小さかった頃は日頃子供を相手にできない父親にとっては名誉挽回の時であり、疲れを癒すよりも家族サービス週間として、家族円満の為に必要かもしれない。

ところでGWという言葉の起源を調べてみると、予想通り和製英語で、映画業界が宣伝用に使っていた言葉だそうで海外では通用するとはいえないらしい。NHKなどではGWというと特定の業界を宣伝することにつながるので大型連休と言っているそうだ。言われてみれば確かにそうだ。ゴールデンの使い方も考えてみれば不思議な感じがしてきて、ゴールデンタイムもそうだが、黄金を冠につけて国民の気分をゴージャスにするという、商業的な心理作戦がみえみえなのはわかっていても、気持ちに働きかける。大変うまいコピーだ。

これに派生して7曜について調べてみたら、明治時代に制定されたとある。それまでは日本は六曜で、今でも結婚式や地鎮祭の日柄をみるのに使っている。今の日曜日に当たる休日はどうだったかというと仏滅は何をやってもよくない日となっていたことから、何にもやらない日、要するに休日としていたらしいから、現代人からすると面白い話だと思う。一方これを考えた中国の人は、人は時には休むことも必要だよ、と法により制定することなく仏滅という日を作ったかもしれないと思えば尊敬に値する。

そんなGWの一方では不自由な避難生活を続けておられる方、家族を探している方、被害者を探している方、復興にむけ不眠不休で働いている方、ボランティアされている方、放射能を浴びつつも原発で作業されている方などおられる。それを思うと今年はゴールデンウィークと言うのははばかられる。



高山の祭り [雑感]

昨日高山で行われた式年大祭のことを書いた。
僕は高校を卒業して以来高山を離れたてもう33年の時間がたった。年に何回か両親のご機嫌伺いを兼ねて高山に帰っているが、その度にいい街だなあと我ながら思う。古い町並みや、春と秋に行われる祭りなど歴史と四季が豊かな街であり、素朴な街の人たちが高山の魅力をつくっていて、よそからも多くの観光客がこの街に来てくださる。ありがたいことだ。
祭りは高山の1年間を通じて最大のイベントで、その日は小中学校も休校となる。なんせ子供たちも祭りのお囃子などで駆出されるのでそうせざるを得ないわけだが、子供の頃は、他の街でも同じように祭りがあってその日は学校は休みであろうと疑うことはなかったが、全国的に特殊なことだと知ったのはずっと後のことだった。祭りとなれば各家庭で宴会が行われて、親戚や知人を招待し大騒ぎをするが、逆に招待される側も何軒もの家からお声がかかるので、その数だけ宴会に参加することになり宴会のハシゴをするわけである。招待する側もされる側もその日はかなり大変な一日となるのだが、年に一度のことなのでこれがないと高山ではないのだ。

夏の朝晩はとても涼しくすごしやすいところだが、冬は寒くて雪が積もり、経済的にも労働的にも大変で日常の暮らしは厳しい。僕の両親は、どこか暖かいところに引っ越したいと何度言ったかわからないほどなのだが、そんな厳しい暮らしでも、愛着の持てる街が高山だ。

東日本大震災の影響で観光客が少なくなっているそうだが、是非とも足を向けていただきたいと思うのである。

高山は今、桜の花びらが街中に舞っている。

高山の式年大祭 [雑感]

この3,4日、家族を伴い高山の実家に里帰りをした。
折しも30年に一度の式年大祭が桜山八幡宮で5月3日から5日まで行われており、今日家族で見に行ってきた。高山の式年大祭は30年ごとに行われていて1981年以来の大祭である。この3日間で飛騨一円131社の神社から神様の分霊が神輿に乗って桜山八幡宮に集うイベントで、2百年以上の歴史を持つそうだ。災害があった時にも催されているそうで、前回は1997年阪神淡路大震災の年に開催された。今回は神事とともに東日本大震災の復興を祈願する大祭である。写真 (9).JPG
この写真は分霊が乗る神輿だが、この前後に多くの氏子が従がってていて、獅子舞や闘鶏楽などが奉納された。犠牲となった方々への慰霊と、被災された方々へのお見舞いと、被災地の復興は心底神様にもおすがりしたい気持ちである。

今日の高山は、黄砂もかなりおさまって乗鞍岳を望むことができた。写真 (8).JPG



桜と入学式 [雑感]

今週はほぼ全国津々浦々幼稚園、小学校、中学校、高校の入学式が行われた。わが家の子供は大学に進学したので、もうこれで入学式に参加することもない。すこし寂しい。
また、桜も今満開だ。
実を言うと、この入学式のときを見計らったように桜が満開になることを僕が意識したのはそんなに昔のことではないのだ。上の子が小学校に入学するくらいのことだから、15年ほど前になろうか。というのは僕は岐阜の高山育ちで、そのあたりの桜が満開になるのはここより2週間ほど後なので、満開の桜の元で入学式を行うことはなかった。だから、入学式と桜が関連付けられる事はなかったのである。だけど、高山の祭りのときに桜が咲くので、祭りと桜は関連している。
入学式に桜が満開になるなんて、神様は粋な計らいをしてくださるものだと思った。
東北の桜はしばらく後だろうが、被災された人たちを少しでも明る気持ちにさせてくれるといいのだが。

今日から新年度 [雑感]

新しい年度が今日から始まる。
入学、進学、就職、転勤、人生にとっても転機を迎えられる人は多く、希望あふれるときではある。が、まだまだ続く苦しい避難生活や家族や家を失った悲しさは東北の人たちの気持ちを思うと、今年は、回復、やるせなさが新年度の希望と同居しているような気分だ。また、被災地復興、原発のこと、日本の経済のことも今の段階では回復の兆しも見え無い状況だ。
ただ、概観的に被災者被災地への救援や復興に向けて、そして日本の復興に向けてなにか日本人の心が一体感を持ちつつあるような雰囲気を感じる。今、自分たちに何が出来るのか、それぞれが考えて行動しようとしているこの状況は今まで僕は体験したことが無い。これはもしかすると60余年前の戦後復興に似た物があるのではないかと思うことがある。

新しい年度は被災者、被災地、日本の復興を目指す年度になる。その先には必ず新しい、世界に誇れる日本があるだろうと僕は思っている。

イベント自粛 [雑感]

大震災が発生し、東北地方の被災者の方がこの先の生活を立て直す兆しも見えない中、また、福島原発の収束の見込みも立たない状況で、各地でイベント自粛が相次いでいる。わが街でも例年行われていた桜祭りが中止になったり、私が所属しているバンドが出演する予定だった5月の児童館祭りが中止になったりと、例に漏れてはいない。大変な目にあっている被災者の方々を気遣って自粛する考えはある意味理解は出来る。が、よくよく考えてみると、遠く離れた僕たちがボランティアに駆けつけることも難しく、そこでできることと言えば支援物資や義援金くらいしかない。行政にとっても同じであって、桜祭りなどのイベントで義援金を募ればそれなりの金額は集まるはずで、中止にすれば義援金はゼロである。被災者の方々を救おうと思えばイベントを行って、救援事業の一つとすれば良いのではないかと僕は思う。

また、まわりの人たちが元気になって被災者の方を支援すべきとの声が各地で上がっている。三谷幸喜さんや杉良太郎さんなども新聞でそう書いていた。ばか騒ぎはいけないが、節度を持って、被災地のことを思いながら日常の事を行い、イベントでもその趣旨に被災地支援を盛り込めばいろいろな意味でよいと思うのである。

エネルギーのこと [雑感]

昨日夕方、家族と買い物に出かけたが街がいつもより暗いことに気が付く。東日本大震災の電力不足への協力行動の関係であらゆる店舗が節電しているためである。周波数の違いで西日本から東日本への送電は難しいとの話も聞くが、そんなことよりも国を挙げて協力するという気持ちが大切なのだ。みんなが出来ることをするという行為が大切だ。

今の暮らしには電気は必要不可欠。灯油を使う暖房器具もファンヒーターなど、ほとんど電気を必要とするものばかりで、我が家でもし停電になったら寒さをしのぐものは何も無い状態だ。

原子力発電所の事故も深刻である。化石燃料を使わず、温暖化効果ガスの発生も少ないとして国や電力会社は建設を推し進めてきたが、この方式には大きなリスクが伴うことを改めて示している。電力は生活に欠かせないと言うよりも、生活に必要最小限の電力は知れていて、ほとんどは娯楽や快適性を保つために使われている。また、経済活動にも必要なのだが、経済活動が大きくなるに比例して使用量も増加する関係にある。

日本が豊かになるため、生活が豊かになるためにはエネルギーがより多く必要である一方、地球温暖化、放射能のリスク、化石燃料の枯渇の問題も大きくなる。この相矛盾することをカバーしてきたのが技術なのだろうが、原発事故によってこの矛盾が破綻したとも言える。今我々が享受している豊かさは極めて危ういものの上に成り立っていることに気が付かされた事故でもある。

釜石 [雑感]

小学校の社会の時間に釜石のことを勉強したことが記憶に残っている。三陸、リアス式海岸、さんまの漁獲高日本一ということの他、過去に大津波があって多くの人が犠牲になったと言うことも。リアス式海岸の形状が災いして被害を大きくしたということも勉強した。多くの人が亡くなったと知って子供ながらに驚愕したことが、僕の記憶に塩釜のことが刻み込まれたのでないかと思っている。その驚愕した災害が再び1週間前起こった。教科書のはなしではなく現実のことだ。

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